小室哲哉さんの引退報道を受けて感じたこと。

介護の現実

小室さんの引退報道を受けて、

何とも言えない思いがこみ上げて来ました。
上手く言えないけど、

本当に大変なご苦労されていたんだろうな…

それが一番最初に思い浮かんだことでした。

不倫がどうとか、こうとか、
ごめんなさい。

それより先にそう思ってしまったのです。

両親は既に他界、そして2人共認知症でした。

父は生粋の九州男児

厳格で亭主関白で、父の言うことは絶対!
幼い頃、テレビは夜8時以降見てはいけないという約束を兄たちと破ってしまった時、
帰宅した父は、テレビのコンセントを抜き、庭に放り投げたのです。

びっくりとか、そんなものじゃありません。
まさに修羅場です。

更に、私への門限も本当に厳しくて
約束の時間に戻らないと玄関に鍵をかけ、中に入れて貰えなかったこともあります。

こんな事ばかり書くと、大変なお父様でしたね。
と言われてしまいそうですが、

普段はとても優しい自慢の父だったのです。

父は一度やると決めたら、途中で投げ出すことはありませんでした。

趣味で始めた三味線も名取にまでなり、何とあの北島三郎さんの舞台で演奏するまでになりました。
更にコチラも同様に趣味で始めた「皿回し」…これに至っては年齢別の九州チャンピョンにまでなったのです。

PTA会長、自治区会長、民生委員など、
頼まれると嫌と言わず、全て引き受け、やり遂げました。

でもその裏で母は大変な苦労をしたはずです。

その父が壊れ始めた、そして母までも….

私が最初にその異変に気付いたのは、心臓の弱かった母が倒れ入院したと聞き、急遽帰省した時の事でした。
父の運転で病院へ向かっていたのに、突然で道がわからなくなったと言い出したのです。

これまで何度も行った事がある病院で、わからなくなった、と言った父の言葉が当初理解出来ませんでした。

途中で運転を代わり無事到着したものの、何とも言えない嫌な予感みたいなものがあったのを覚えています。

その後母は無事退院。
いつも通りの2人の生活がスタートしました。
それからは、何事もなく時々電話して近況を聞いて、安心していたのですが、年に1回お盆に帰省した際、毎年帰る度に実家の家電製品が新しくなっているのです。

それもただ単に新しくなっているというより、現役を引退した両親にはとても不釣り合いとも思える上位クラス、冷蔵庫にしても、レンジにしても、エアコンにしても、また空気清浄機にしても、

え?また買い換えたの?

その後、関西から戻って来た兄が調べて分かった事、それは地元の電気店に多額の借金があると言うことでした。
借金返済後、その電気店と話をして、今後は一切購入させないで欲しいとお願いをし、その後は兄がお金に関する管理をするようになりました。

毎月必要な金額だけ渡して、あと、どうしても必要な時は言うようにと。

でも、父にははそれが理解できず激昂したそうです。

壊れ始めた

お金も持たずに病院へ….

今まで自由に使えていた自分のお金が思うように使えない…
その苛立ちも当初はあったようですが、途中から、その事すら理解出来ないようになってしまっていたようです。

病院へ行くのにタクシーを呼んだまでは良いのですが、お金を持たずに乗ってしまった。

病院へ着いて、支払いを求められてもお金がない、持ってない。
結果、警察を呼ばれパトカーで送られ、連絡を受けた兄が厳重注意される始末、

その後も具合が悪いと、何と直接救急車を呼び、玄関前で待っていたような事もあったようです。

ここで思われますよね。
母がなぜ、そこで注意しなかったのかと。

つまり、その時点で、母も認知症を発症していたのです。

このまま2人きりで生活させるのは無理かもしれない。

この件で、兄妹で話をしました。

施設への入所も脳裏を横切りましたが、長男である兄が自分が面倒みるから、とそう言ってくれて、その時は、そう深く考えてもいなかったのですが、その後兄がどれだけ苦労したか、後にそれがわかったとき、本当に申し訳ないというより、本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。

楽しみにしていた帰省がいつの間にか、「辛」に変わっていた。

兄が傍にいてくれている。
その安心感はあったものの、当の2人(両親)はそれが理解できず、私に何度も電話しては、

>〇〇(兄の名前)がお金くれんけん、飢え死にしそうたい。

それを兄に伝えると、笑いながら大丈夫、大丈夫、ちゃんとヘルパーさんに頼んで食事作って貰っているから大丈夫だよと。
そしてお盆に帰省すると、ヘルパーさんから、

ご両親、娘さんがもうすぐ帰って来ると言って楽しみにされていましたよ。

と、そんな話を聞くと、やはりグッとこみ上げてくるものがあって、私が居るときは、精いっぱい親孝行しようと決めていたのに、
ある時、夕食を済ませテレビを見ていたら、その日早めに休んだ父が起きてきて、

突然

>何時までテレビ見てるんだ!
>早く消さんか!!

と、怒鳴ったのです。

まだ9時前だよ、

そう答えると、顔を真っ赤にして、

横にいる母に向かって、

>こいつ追い出せ

と、そう言ったのです。

何言うんね、まだ早いやないね。
いいやなかね、

そういう母の言葉に父はテレビのコンセントを抜いたのです。

その時、恐怖を感じました。
このままだと、またテレビ投げ捨てる。

そんな思いがこみ上げ、
部屋に戻りました。

 

涙がこみ上げ、何とも言えない気持ち。
横になっても全く眠れない。

そんな悶々とした時間を過ごしていた時、部屋のドアが開いた気配を感じたのです。

ふとその方向に視線を向けると、父でした。

何してるよのよ!

何度か開け閉めしたかと思ったら、部屋に戻ったようでしたが、

翌朝、そのドアを開け部屋を出ようした時、思わず滑りそうになったのです。

何これ!

そこにあったのは、信じられような現実、
父が粗相した後でした。

大声を出し、母にその事を伝えると、母は

ごめん、ごめん、
ほんと、ボケてしもて、どうもこうもならんたい。

そういいながら、廊下を拭く母の姿に、もうたまらなくなって、

そんな出来事が年々多くなり、これまであれほど楽しみにしていた年1回の帰省が、辛いな、って思うようになってしまったのです。

父の最後の姿

私が生前の父に最後に会えたのは、父が下血し入院していた病院でした。

その知らせを受け、病院へ…
一命は取り取りとめたものの、次回同じようなことがあれば、その時は覚悟していてくださいと、そう言われ後ろ髪引かれる思いで戻ることに。

父にまた来るからね、とそう言うとにっこり笑って、
じゃ、またね。

そう言って病室を出ると、何やら背後に気配を感じたのです。

振り返るとそこに居たのは父でした。

父の姿

 

点滴棒につかまりながら、にこにこ笑い、私に向かって手を振っていたんです。
涙をこらえるのが必至で、あの優しい父の微笑みが、私が見た父の最後の姿でした。

兄から父が危篤だと連絡を受け向かったものの、結局最後には間に合わず、
同じく母も同様に再会したのは、棺の中にいた父と母でした。

最愛の両親
それなのに、帰省するのが辛い、早く帰りたい、

そう思った自分をどれ程責めた事か、

母が他界した後、遺品整理をしていた時、兄が母に書かせていた「備忘録」という日記みたいなものが出て来ました。

兄との連絡帖の役目もしていたようで、

今日は〇〇の日です。 例:病院やディサービスへ行く日ですとか。

そしてその下には母が自由に書いていたのですが、

私が兄に送られ戻った日の記載がたまらなくて

8月17日

朝食スミ 父さんあいかわらずねている ヘルパーさんこられて色々と… (よくねられる事だと思う)
〇子9時ごろ〇〇(長男の名前)と一緒に出て行きました。
ゆうべあまりねむれなかった。〇子も遠い所から来て何もしてやれず はんたいにしんぱいかけて事と思います。
御免ね こらえて。 9/20分頃
今日色々と(こうかい)ばかりでなんとなく変です。

8月19日

〇子きのう帰りました 今度わ私が何だか変で何もしてやれなくてほんとに可哀相な事をしました。御免ね。
今日になってつくづく思います。
〇子もこれからこないかもしれないどうしよう。
父さん朝早くから野球をかけてやかましい。(特別 これもしかたないか

母にこんな思いをさせていたんだ。

私こそ、ごめん。
本当にごめんなさい。

介護する人、される人…

とても一言では語れません。

兄の苦労も、きっと私が想像している以上のものだったかと。

小室哲哉さんも、同じくきっと大変なご苦労を日々されて来たのだと思います。

上手い言葉が見つかりませんが、小室さんの事を心配し、声を上げてくださっている方多くいて、それだけでも、良かったなと、そう思っています。


『介護に正解はない』
と言う言葉を聞いたことがあります。

人それぞれ考え方は違うと思いますが、誰も、

まさか自分の親が、兄弟が、
そう思っていたはずです。

介護する人、される人にとって、優しい社会になれたら良いですね。



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